劇場版『ソードアートオンライン オーディナルスケール』は「俺ら」の映画だ
2017年2月18日(土)、僕をはじめ多くのオタクにとって忘れられない作品である川原礫原作の小説「ソードアートオンライン」(以下SAO)の劇場版『ソードアートオンライン オーディナル・スケール』が公開された。
僕は朝一の回を見たが、視聴後に漏れた言葉はたった一言「100点」(100点満点中)であった。
ここでは映画の感想と、この映画に対する「俺ら」についてのある種の考察を書く。したがってストーリーのネタバレを含むため、視聴後に読むことを強く勧める。さらに、視聴前に今までのSAOをざっと思い出しておくと映画がより楽しくなるだろうということも言っておこう。
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概論
まずこの映画は、キリトとアスナの映画であると同時に「俺ら」の映画であった。
映画を見てまず気付いたことは、SAOを初めて読んだ2009年頃(『アクセルワールド』を発売すぐに買ったことは覚えている)の、あの日から、僕は(そしておそらく僕と同じような世代は)キリトたちと共にアインクラッドに囚われていたということだ。
この「アインクラッドに囚われた」という感覚は二重の意味を持つ。一つはキリトたちが実際的に囚われていたということ、もう一つはキリトたちはアインクラッドから解放されたにもかかわらずその時の記憶を正負の両面で持ち続けているということである。
実は「SAO」という作品の中で、アインクラッドを舞台にした話はそれほど多くない。半数以上は脱出後のストーリーである。しかし、いつでも核になっているのは「アインクラッド」であり、「SAOサヴァイバー」であり、「ナーヴギア」である。それほど、あのアインクラッドでの2年間は主人公・キリトをはじめ「SAO」という作品すべてにおいて重要なのだ。そして、僕たちにとっても。
思い返せばあの時代(2009年頃)に、「ゲームという異世界」「脱出不可能なデスゲーム」「強い主人公」「一人のヒロインに一途」という要素を組み合わせた作品はまだそれほど多くはなかった(存在はしていたけど、ヒットの規模的な意味で)。SAOが今日の転生ブームや所謂俺ツエーものの隆盛に一役買った作品であることは言うまでもない。故に、僕の世代、すなわち2009年に中学生~高校生くらいだった世代はSAOからこの手のジャンルに入ったorこの手のジャンルで最初にハマった、という記憶がある人も多いのではないだろうか。
この世代を雑にこの文章で言うところの「俺ら」としよう(今の20~26歳位)。
僕が『オーディナルスケール』を「俺らの映画」と言うのは、何も「俺らの映画だから他の奴は見るな」と言いたいわけでは当然ありえない。矢印のベクトルはつねに映画が全人類に発するものであって、受け取り手は個別でしかないのだから。
しかし、僕を含めた「俺ら」はとりわけこの『オーディナルスケール』に移入してしまう面がある。だって「SAO」は「俺ら」の青春なのだから。僕たちの上の世代が『エヴァンゲリヲン』に感じたシンパシーに近いものを僕たちは「SAO」に感じているのかもしれない(もちろんこのシンパシーはエヴァの人たちのものとは全然別物だし、ただ似ているというだけである。それはジャック・スパロウと黒ひげみたいなものだ)。キリトくんはじめ登場人物たちと同じような年齢の、今まさに青春を送っていた「俺ら」は、「SAO」に出会って思い切り感情移入をした(=囚われた)のである。
そのことを強く感じたのは、公開日・土曜日の映画館にやって来ていた満員の観客が僕たちを含めてほとんど全員大学生~社会人(20代)だったのを確認したためでもある。宣伝的に見れば映画のターゲット世代として直撃するのが「俺ら」で、それがたくさん来たのだから、成功したということだ。おめでたい。
ネット上の作品発表形態の変化
元々「SAO」は川原礫の個人サイトで書かれていた(2002~08)。この時期はネットの急速な発展で様々な文化が誕生、変化している。 川原礫による「SAO」は小説におけるそんな変化の中、個人サイトから共有サイトへの移行期に書かれている作品といえるのではないだろうか。
現在、一次創作では所謂「なろう系」(小説家になろうをはじめネット上の一次創作共有サイト)のヒットも目立つ。 ネット一次創作の大手共有サイトである「小説家になろう」は2008年頃より頭角を現したと記憶している(2004年設立、2010年には二次創作がジャンル分離)。 また、二次創作小説はpixivやTwitterを経由したサイトなどで書かれ、個人サイトはかつてほど多くはない。
この変化をもう少し見ていこう。
2007年、初音ミクやニコニコ動画がネット内に広がり始め2009年頃にはこの文化が最初の絶頂期をむかえたように思う。動画における個人とはおもしろフラッシュなどのあの文化であったかもしれない(多分他にもあると思うけど)。それはネット上に放流され、まとめwikiなどでリンクが張られた。それがYoutubeやニコニコ動画という共有サイトに統合されていく時期である。
個人サイト→共有サイトという変化がここでも見られる。また2ちゃんねるという特殊な文化の存在もこれらの変化を後押しした要因の一つであったはずだ。
「俺ら」じゃん
さて、それでは「SAO」がその個人から共有への変化期にあったことは何を意味するのか。
個人と共有。「俺ら」世代は青春期にこの変化のただ中にあってどちらもそれなりに体験したわけである。そして、そこで学んだ面白さとは、「匿名で何かを動かす楽しさ」であった。
とかくネットにおける匿名性は批判されがちであるが、いい面もある。ニコニコ動画に上げた動画で感動したとコメントを受け取ったり、アニメのラジオにはがきを送ったり、掲示板でSSを書いて見ず知らずの誰かに褒められたり……小さな秘密主義の個人サイトから大きな共有サイトへの移行は匿名性を強めたが、同時に多数のコメントを生んだ。多くの人がコンテンツに触れる機会が増えたのである。それは発信者と需要者の両方に変化をもたらした。
特に需要者にとっては、オタクコンテンツに触れて、それを評価し、作者に感想を届けるという行為が格段に気軽なものになったのである。
エヴァの世代の人たちからすればオタクが薄くなったとか、ニワカが増えたとか思うかもしれないし、間違っていないのかもしれない(オタク内でのマウントの取り合いは醜いので言っておくけれど、喧嘩売ってるわけじゃなくて、「オタク」という言葉の意味が変化したと言いたいのであって他意はない。気に障ったのなら申し訳ないです)。しかし、いまどきDQNもガルパンを見る(地元のDQNたちに話しかけられて知った)し、駅には二次元アイドルのポスターが貼られ、首相がマリオのコスプレをする。
オタクという言葉は意味合いがかなり変化している。
それでも、僕らが「SAO」を読んでいた頃はまだラノベはオタクが読むものだとある程度思われていた。だが同時にオタクであることがそれほどマイナスではなくなっていたようにも思う。これには色々な要因もあるし、いやマイナスやろという意見もあると思うのだけど、少なくとも「それまでのオタクのイメージ」とは異なった、まさに「ライト」なオタクが登場したのは間違いない(これはゼロ年代に入ったあたりから兆候はあったかも知れない)。
で、結局なにが言いたいか。それは僕の定義する「俺ら」は、個人サイトから共有サイト、すなわち匿名性の時代に変化する真ん中で「SAO」に触れたよ、ということである。
もちろん、個人サイトの時代でも匿名性はあった。それは間違いない。世界に3000人しかパソコン持ってない時代より匿名性は強いに決まっている。個人サイトがそのまま形を変えて例えばpixivなどのサイトに移った(発信者はいずれにせよ有名の個人)という考えもその通りかもしれない。だけど、匿名の需要者(=読み手、受け手)は確実に増えた。
すなわち、発信者の匿名性よりも、匿名の受容者が増えたことがここでは重要なのだ。
なぜ『オーディナルスケール』は「俺ら」の映画なのか
映画中で登場するSAOの顛末を記した本に登場する人物は生存者6000人のうちわずかである。謎めいたSAOサヴァイバーの男・エイジが作中で言う「僕らは名もなく記憶もされないんだ」的なセリフが、僕には一番刺さった。
だって、「俺ら」もそれだから。
キリトくんの物語を読んで、自身の青春を重ね合せつつ、彼(=主人公)の活躍を見守る第三者としてアインクラッドに囚われた「俺ら」を、彼は代弁していたのだ。 その他大勢の名もなき者たち(=読者も含めた非攻略組)は彼ら記憶される者たちの攻略の物語を外から見ていた。
映画においてエイジは忘れ去られる前に最愛の人を、散りばめられた記憶を使って取り戻したかった。それは紛れもなく一人の人間の感情だ。
そう、匿名の中には必ず人間がいるのである。
匿名の共有サイトで確かにメルトは100万再生を達成したし、再生ボタンを押したし、コメントブクマをしたけど、名前が残ったのは「メルト」と「ryo」さん(その他supercellの面々)と「初音ミク」だけだった。だけどボクはそれでいいと思っている。だって、「俺ら」は確かにそこにいたのだから。
このことを踏まえて考えると、映画のエンディングが「俺ら」にとって救いとなったのは、優那のことをみんなが思い出したということである。少なくとも優那と何気なく遭遇していたことを示すカットが挿入されていた。それは確かな記憶として優那を形作る予定だったのだから、逆説的にみんなが優那を頭のどこかで記憶していたことになる。それぞれの記憶の断片に、確かに存在した路上の歌姫の記憶。それがああいった形で再現され、欠片となって100%復活した。誰しもが優那を覚えていた。優那は確かにそこにいた。
エイジは匿名の誰かだったかもしれない(実際にはアスナが彼を覚えていたし、彼は戦えなかったとはいえ攻略組だったけど)。だが彼にとってたった一人の最愛の優那を匿名の誰かにだけはしたくなかったのだろう。手段は外道ともいえるかもしれないが、優那の父の犯行動機と並んで、これは美しい純愛の一つの形であったと僕は思う。
また、映画のタイトル「Ordinal Scale」とは作中でも言及されていたが、序数で制御するシステムの名称である。しかし同時に、「序列の縮尺図」と訳することもできる。 すなわち、主人公とモブの「俺ら」、攻略組と非攻略組……こういうところも、この映画が「俺ら」の物語である要素だと思う。
色々書いてきたけれども、最後にもう一度、結論にして感想にして「僕の」見たこの映画とは何だったのかを言おう。
この『ソードアートオンライン オーディナルスケール』は、キリトとアスナの物語であるだけでなく、名もなき「俺ら」の物語でもあった。
その他感想
この映画、まず作画がすごい。特にアスナ全般の作画と最終戦闘シーンの作画は鳥肌もの。さらに日常にとけ込んだ新デバイスの存在や、いまだ生き残るスマートホン、中年~老人たち(例えば警官など)の適応不足など、近未来の技術考証がいかにもそれらしく、物語の世界にすんなりと入り込める。それからアスナに重なるユウキ、あれずるよ泣くよそんなの。みんな応援に来るし熱い涙尽きないよ。あと妹おっぱいでかすぎぃ!(好き)最後に驚愕の発表があったりして、本当にこれからも楽しみです。ありがとうSAO! オタクでよかった!
なおこの文章は僕個人の意見であり誰かや何かを攻撃する意図はありません。不快に思った方がいたらあれ、道端で犬の糞(出したて)に遭遇したと思って下さい。「てめぇの文章のせいで!」的な誹謗中傷など一切受け付けません。









